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2006年12月08日

開戦の日・・

今日は、65年前の太平洋戦争の開戦の日と云うことで、心、清らかにして先人たちの多大な犠牲の上で成り立っている現在の暮らしに感謝する為にと社長の親友H先生の所に伺いました。
そして、以下のお手紙をお預かりし、このブログに記載しました。
わたしも大好物の「羊肉ジャーキー」でお世話になっているオーストラリア国のお話と云うことで、感謝をこめて拝聴しました。


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オ-ストラリアの人々へ

          愛と感謝をこめて

          石 久 隈 市

 先ず、自己紹介を。筆名の石(いし)久(く)隈(くま)市(いち)は、数字の一四九九〇一(いしく く まいち)を、漢字化したものである。
この六桁の数字は、捕虜登録番号である。
うち上の二桁「十四」は、ニューギニヤ地区で捕らえられたことを示す。
私は一九四四年九月 ニューギニヤ東部の孤島で捕らえられ、一ヶ月間転々として、オーストラリア ニューサウスウィルス州HAY市の収容所におくられた。
確かではないが、ここには三つの収容所があり、私は「第七キャンプ」に入った。 
そして一九四六年三月、日本に還るまでの一年有余をこの収容所ですごした。 
一九二六年生れの私は、貴重な十八・九才の青春をここで過ごしたわけである。
HAY市はシドニー市の真西約700キロ、緑地帯と砂漠との境にある小さなな町で、冬は薄氷が張った事が一度だけ、夏は40度に近い猛暑であったが、空気が乾燥しているせいか、しのぎ易かった。
日本に帰ってから、多くの日本軍捕虜がロシヤ・中国・アメリカ等に収容されていた事を知った。
また日本軍に捕らえられた連合軍の捕虜がどのような処遇を受けたのかも知った。
安易な比較は慎むべきだが、ロシヤに捕らえられた日本軍兵士は、厳寒と飢餓の中で強制労働に狩り立てられ、二割か三割の兵士が母国に帰ることなく死去したという。
それに比べ、豪州軍に捕らえられ、豪州に送られた日本軍捕虜は幸運であった。私たちはそこで楽園の生活を送ったのである。「第七キャンプ」は七・八百人の収容人数であったが、私の識る一年有余の間の死亡件数は三・四人であった。
これは通常の日本人社会と比べても多い数ではあるまい。
収容所内の生活は完全な自治が保たれ、強制労働は無かった。収容所には木造の三十六の兵舎が並び、一兵舎には二十数人が入っていた。兵舎で兵舎長を選び、兵舎長は収容所を代表する団長を選び、本部と呼ばれる執行部を構成した。
 毎日の日課として朝八時に朝礼があり、全員が広場に集合する。豪軍将校が兵士を従えて出席し、人数を点検する。終わって本部から連絡事項が伝えられ解散する。
午後は兵舎内の検査があり、武器や危険物の所在、衛生状況などが調べられた。
それ以外の時間は、各個人の完全な自由時間であった。
 屋外の運動としては、野球が盛んであった。多くのチームが作られ、兵舎対抗野球大会も開かれた。グローブやミットは所内の職人がつくり、バットや球は豪軍から贈られたようである。
 兵舎内では麻雀が盛んであった。使われる牌は、燃料となる硬い木材で作られた。
 牌面に刻まれた図柄は精巧そのものであってその道の職人の傑作と言えた。トランプや花札も盛んで、これはタバコの空箱で作られた。囲碁や将棋も盛んであった。もちろん碁盤や将棋盤、碁石や将棋駒は手製であった。
 芝居や演劇も上演され、女形やレビュー団も作られた。和歌や俳句のグループも作られ、
 柔道の道場も開かれた。英語の学習も初級から上級まで各グループに別れてひらかれた。
 後には所内に定期文芸誌「心の青空」が発行された。
 地元の新聞や遠く「ニューヨークタイムス」まで入り、関連記事はすぐに日本文に訳され掲示された。問題となったのは広島の原爆投下の記事である。この新型爆弾の威力は悪魔的で、広島周囲百キロ以内の生命はすべて死滅し、今後百年間この地域で草木が芽を出すことはない、という衝撃的なものであった。
しかしこのニュースは掲示以前に、口コミにより所内に浸透していた。
 食事について云えば、朝食はパンとオートミール。それにジヤムかバター、チーズがついた。
 昼食は米食、夕食はカレーライス・チキンライス・ステーキなどがでた。
十時と三時には、コーヒー・紅茶にケーキがでた。
  毎朝背割りされた山程の羊肉が搬入され、連日食卓には羊肉が溢れた。しかし当時の日本の食習慣の中で羊肉料理は無かった。炊事班の料理人も不慣れであったか、羊肉はあまり歓迎されなかったようである。しかし週に一・二度は牛肉や豚肉も食べられた。
 昼食は御飯である。豪軍はどこから米を集めてきたのであろうか。日本人の食習慣を知っての配慮であったろう。それに連日魚が供された。
 しかし醤油・味噌の調味料のない日本食はなかなかに馴染めず、秘かに手製の一夜漬けなどを作った。
  食事は質量ともに十分であったので、朝食のパンなどは柔らかい中だけを喰べ、硬い皮は捨てていた。だから残飯が溢れ、収容所から離れた処で豚を飼育していたようである。
 また秘かに酒をつくり居酒屋もひらかれた。
 通常であれば昼夜嬌声で湧きかえってる兵舎内外でしたが、一九四五年八月十五日はちがっていた。この日の朝礼で日本の敗戦がしらされ、その日だけは沈黙が収容所全体を支配していた。
  ヒットラーの独乙は、首都ベルリンが攻略されてもなを斗った。当然に日本でも東京が占領されても、日本軍は天皇を奉じて中部山岳地帯で戦い、最後は朝鮮と中国との国境地帯に逃れてもなお抵抗を続けるだろう。勝てる見込みはゼロであったが、これほど安易に降服するとは思わなかった。
 捕虜となっても日本軍人の心情は複雑である。多くの人は軍歴を隠し、偽名を使っていた。
 日本の家族との文通が可能であるとすすめられたが応ずる者は居なかった。
 一九四六年三月、私達は帰国することなり。
 引揚げ船はシドニー港を出発した。左岸に陸地を見ながら一週間かけて船は豪大陸を離れた。豪大陸は広い。当時は豪州には東京と同じ約六百万人が、日本列島の二十倍も広い砂漠大陸に散在していると知らされていた。このうち百万人が戦争に動員された由、捕虜収容所の守備には老齢兵が目立っていた。

  日本国内では朝鮮人の暴動が発生、農業は大凶作で百万人の餓死者が出る見込みなど不安の中を無事帰国。それから長い年月が流れた。HAY市「第七収容所」の仲間達は「七豪会」なる戦友会をつくり、年に一・二回の集まりをもった。そこでは苛酷な戦場と懐かしい収容所の思い出が語られた。また収容所での「心の青空」も復刊し、これは四十数号まで続けられた。しかし会員の高齢化は進み、一九九九年には「七豪会」も解散した。
 最年少であった私も現在では八十歳を越えてしまった。私の死期も近い。
 最近では日本と豪州との交流が盛んなようである。主として若い人々であろう。
多くの観光客が豪州を訪れている。しかしHAY市の収容所跡を訪れる人はあるまい。
わが住む北海道にも豪州からの観光客が多くなった。これら豪州の人々に告げたい。
皆さんの祖父母の方々にお伝えいただきたい。
六十年前、私達日本人捕虜に対して示された豪州の政府と軍と人々の暖かい厚遇への感謝を。

心 か ら あ り が と う

投稿者 choko : 2006年12月08日 20:01

コメント

父親を懐かしむ息子様。
 石久隈市の本名は早坂基と云います。
 彼は2010年1月22日に亡くなりました。
 今から45年前、私が20歳に知り合って以来、戦争の話を聞きました。
 オーストラリアの事も仔細に伺ってました。
 彼の事は、このブログに何度も書きました。
2005年12月8日
2009年1月3日 彼が倒れた日です
2009年12月8日
2010年1月23日
2012年07月2日の記事は彼の著書が岩手県田野畑村に早坂文庫として保管されている記事です。
 彼も数年前までは毎年8月には「七豪会」に参加してました。
 以前には、きっとお父様にもお会いしていたことでしょう。
 コメント投稿時にアドレスを頂いてますので、詳しくはメールで送ります。


投稿者 早坂氏の親友 : 2013年03月29日 09:20

ふと思い、父親の戦友会の名前の「七豪会」で検索したところ、このページにたどり着きました。
石久隈市さんが書いている内容は、1996年に亡くなった父親から聞かされていた捕虜生活と同じ内容でした。
野球が盛んとありますが、父親がピッチャーを務めるようになって、チームが強くなったと聞いています。
また「心の青空」は父親が編集をしていました。

石久隈市さんは、今もお元気なのでしょうか?

私も50歳を過ぎ、一度はHAY市の収容所跡を訪ねてみたいと思い、とても興味深く読ませていただきました。

投稿者 父親を懐かしむ息子 : 2013年03月29日 00:18

今日は開戦記念日でしたか。お話は重いですね。オーストラリアの英語はオージーイングリッシュト言われていて、today(ツゥデイ)はto die(ツゥダイ)と聞こえる。開戦日の「今日」とは何の関係もないのだけれど、戦争の話となると何かこの発音にはひっかかるものがあります。

投稿者 オーストラリアを観光旅行した輩 : 2006年12月08日 20:04

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